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第二十五話 香りの距離

مؤلف: 海野雫
last update تاريخ النشر: 2026-07-26 19:07:05

 澪が提案した企画は、ダーマコードCEOの仁が強く望んだことで、実現する運びとなった。

「面白いじゃないか。これを機に、セミオーダーのラインを工場に作ってしまえば、これからはセミオーダーにも対応できる。他社が参入していない今、挑戦しなくていつ挑戦するんだ」

 仁は自社の社員にそう言った。

 ダーマコードは社員二十五人の小さな会社だが、精鋭揃いだ。だからこそ短期間で、業界で知らない人はいないほど成長したのだ。

 セミオーダーの「Onlyé for you」を開発することになり、仁はラボにこもった。昼は開発担当を呼び、ひとまずベースをいくつも試作した。夜も家に帰らず、たったひとり残って作業を続けた。その作業は、商品化に向けたものではない。たったひとり――澪のために行う、開発だった。

 モニターに開かれた処方データのファイル名は、商品コードではなく、ただ二文字――『M.A.』。

 サロンの日、澪に使ったOnlyéは、澪のために特別に処方したものだった。澪はいまも、それを使い続

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     千華とカフェで会ってから、ずっとあの言葉が頭を離れない。「あなたは、彼のなんなんですか?」 まっすぐ届いた言葉は、澪の胸を大きくえぐった。 ――あたしは……。 仁の幼なじみだ。それは間違いない。 仁の会社の取引先だ。それも間違いない。 仁に告白された相手。仁と一度だけ関係を持った相手。告白を保留したままの相手。仁のことが好きなのに、それを言えずにいる相手。 どれも当てはまるのに、どれも当てはまらない気がする。 どれかひとつを選んで名乗れるような、そんな名前が、ふたりの関係にはなかった。 この一週間、千華の言葉が頭のなかをぐるぐると巡っていて、仕事にも集中できなかった。「はあ……」 がっくりとうなだれて、ため息をつく。 本当に仕事が進まない。これではだめだとわかっているのに、体が動かない。「どうしちゃったのよ、澪ちゃん」 奈央に声をかけられて、ゆるゆると頭を上げた。「奈央さん……」「どうしちゃったの、その顔」「……え?」 そんなにひどい顔をしているだろうか。澪はぺたぺたと自分の頬に手を触れた。「澪ちゃん、鏡見てないの? くま、すごいよ」「そんなに!」 言われてみれば、ここ数日、夜に肌になにをつけたのか思い出せない。化粧水をはたいた記憶も、オイルの手ざわりも、どこにもなかった。手入れを飛ばすなんて、今までしたことがなかったのに。 自分が情けなくなって、眉が下がる。「なんか……ありえないです……」 よほどひどい顔をしていたのだろう。奈央が慌てて澪の肩に手を置いた。「ちょっと、澪ちゃん。もしかして、悩みごと?」「…………」

  • 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません   第四十九話 彼のなんなんですか?

     千華は週末の土曜日の昼どきを指定してきた。ダーマコードとの交渉があるため、平日は忙しいのだろう。それだけでなく、ほかにも業務があるかもしれない。 澪も、平日でなくてよかったと思っていた。平日に千華とプライベートで会えば、仕事に支障が出るに決まっている。もし仁のことを話さなければならないとなれば、なおさらだ。 とにかく、会う約束をしたのだ。どんな話をされるにせよ、腹をくくって向かうしかない。 澪は、千華からもらったメッセージをじっと見つめた。 あのカフェを思い出す。麗奈に呼び出され、伝票を置かれた、あの午後。 ――今度は、なにを言われるんだろう。 土曜日、千華が指定したカフェへ向かった。 木でできたコテージのような外観だった。店の前には大小の素焼きの植木鉢が置かれ、季節の花々が咲き誇っていた。店の脇にはローリエの木がすっと立ち、ミモザの葉が入り口に影を落としている。「かわいいお店」 思わずそんな言葉がこぼれた。ドアを押すと、カランコロンとドアベルが鳴る。 待ち合わせの十分前だったので、まだ来ていないだろうと思っていた。けれど、千華はすでに店内にいた。背筋を伸ばし、本を読んでいる。花柄のワンピースがよく似合っていた。真っ黒な髪にダウンライトが反射して、つやつやと光っている。「九条さん、お待たせしました」 声をかけると、千華は本からゆっくりと目を上げた。「朝倉さん。ごめんなさい、気づかなくて」 パタンと閉じた表紙には、英語で「Cosmetic」という単語が並んでいた。論文か専門書だろうか。休みの日にまで、と思う。「どうぞ、座ってください」 差し出した手は指先までまっすぐ伸びていて、所作が美しい。やっぱりお嬢さまなのだと、改めて思い知らされる。「失礼します」 向かいに腰をおろしたが、居心地が悪くてもじもじしてしまう。「お名刺の番号にご連絡してしまって、すみません」「いえ、そんな」「お食事は? ここはハンバーグ

  • 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません   第四十八話 訊く権利

     業界内の噂というのは、あっという間に広がるものだ。 次の日には、グロウセオリー内でも「ダーマコードの高宮仁と胡蝶堂の九条千華が婚約する」という噂が尾ひれをつけ、大きくなっていた。「高宮社長、婚約するんだってね」 給湯室から漏れる声に、澪は思わず足を止めた。別に聞きたいわけではないのに、勝手に耳に入ってくる。「胡蝶堂のご令嬢だって! 今いちばん勢いのある会社と、老舗コスメメーカーだもん。知らない人なんていないよね」「資本業務提携だけじゃなくて、結びつきまで強くするなんて、今どきすごいよね」 確かに、家と家の結びつきで結婚をするというのは珍しく聞こえる。けれど、両者の目的が一致すれば、そういうこともあるのだろう。 だったら、仁は。 訊けばいい。澪と仁は幼なじみだ。それぐらい訊ける関係のはずだ。 けれど、どんな顔をして、なんと言えばいい? 澪は唇を噛みしめて、その場を後にした。 背中で、まだ声が続いていた。「でもさ、こういうのって普通、断らないよね。会社のためだもん」 家に帰ってからも、何度も同僚の声が頭のなかにこだました。 スマホを取り出し、仁とのメッセージ画面を開く。 訊きたい。 あれ、本当なの? たったひとことじゃないか。それなのに、指がうまく動かない。 キーボードの上で指が止まったまま、時間だけが過ぎていく。 澪は仁にとって、なにものでもない。ただの幼なじみで、取引先だ。その関係で、個人的なことに踏み込む権利があるだろうか。 ――そう。権利。 自分の頭に浮かんだ言葉に、澪はうつむいた。 仁は好きだと言ってくれた。あれは紛れもなく本当だと思っている。 でも、好きなのと、結婚するのは別の話だ。好きだとは言われたが、結婚してほしいとは言われていない。 そもそも澪は、告白されておきながら、返事すらしていない。仁が澪に見切りをつけて結婚相手を探したとしても、責め

  • 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません   第四十七話 九条千華

     ダーマコードが胡蝶堂と資本業務提携を結ぶことになった。澪は仁から交渉の場に来てほしいと言われ、ダーマコードへ向かっている。 なぜ自分が呼ばれたのか、わからない。澪はダーマコードとコラボ企画をしたECサイトの担当者にすぎないのに。けれど、呼ばれたからには行くしかない。 ダーマコードに着くと、会議室へ案内された。そこには仁と真壁がいた。「遅くなりました」 仁が澪の顔を見てほほえんだ。けれど、その笑顔は心なしかこわばっているように見えた。「朝倉さん、わざわざご足労いただきありがとうございます。本日は議事録を取っていただきたいと思い、お呼び立てしました」 真壁が書類を手渡しながら言った。「私でよければ、お手伝いさせていただきます。けれど、御社の社員でもないのに、よろしいのですか?」「はい……。お恥ずかしながら、弊社は社員が二十五人しかいません。今はOnlyé for youのほうで、みんな手いっぱいでして」 澪が先行予約の企画をしたせいで、しわ寄せが来ているのだろうか。澪は眉を下げた。「すみません……。私が企画したせいで……」「いえいえ! そんなことはないんですよ。みんなやる気になってくれて、うれしい限りです。先行予約分は既存ラインで作ることになるので、調整が必要でして。加えて、新規ラインをどうするかも、みんな必死に考えてくれているんです」 真壁は本当にうれしそうに、にこにこと笑っている。社員に活気があるというのは、いいことだ。 その真壁が、ふと声をひそめた。「……まあ、それに。どうしても朝倉さんに、と言ったのは高宮ですので」「え?」 聞き返そうとしたが、真壁はもう書類のほうへ視線を落としていた。 澪は仁を横目で見た。仁はうなずきながら笑顔を浮かべている。けれど、その口元はこわばっているように見える。 ――今回の交渉に緊張してるの? 仁がぎこち

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     仁が鋭い瞳で、澪のスマホの画面を見つめている。先ほどまでの甘い空気は、一気に冷えていった。 澪はふい、とスマホから目をそらした。このまま切れてしまえばいい。そう思っていた。 けれど、着信音はいつまで経ってもやまない。ローテーブルの上で、スマホは震え続けている。 そっと仁に目を向けた。 仁の顔からは色が抜け落ちていた。さっきまでそこにあった光は消え、仁は目を伏せている。まるで、自信をなくした子どものような表情だった。 どうしてそんな顔をするのだろう。仁はいつだって、自信に満ちあふれていたはずなのに。 ――仁にそんな顔をさせているのは、あたしだ。 澪はスマホの画面をにらみつけた。迷ったあげく、手を伸ばして電話に出た。「もしもし」 自分の声にびっくりした。今まで聞いたことがないほど低かった。『澪か? 俺だ、直哉』「……うん。なに?」『いや、なにって……。たいした用じゃねえんだけど』「たいした用がないんだったら、切るわよ」『いやいやいや、ちょっと待て!』 直哉が慌てた声を出した。一瞬スマホを耳から離しかけたが、すぐに耳に当て直した。「なによ。あたし、今忙しいんだけど」『最近さ、花音とうまくいってなくて』「ふーん。そう」 まったく興味のない話だった。直哉と花音がうまくいこうがいくまいが、澪には関係のないことだ。『あいつ、家のこと全然やらないんだよ。ちょっと注意しただけで泣くしさ。澪はそんなことなかったのにな』 比べられている。それも、自分に都合のいいところだけを切り取って。「それ、あたしに関係ないんだけど」『そんなこと言うなよぉ』 直哉が甘えた声を出した。五年間、澪はその声を何度も聞いてきた。かつてはこの声に、しかたないなと笑って許してきた。『やっぱり俺は、澪じゃないとだめみたいだ』「は? なに言ってんの

  • 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません   第四十五話 祝杯と鳴らないでほしかった電話

     Onlyé for youの本格的な発売はもう少し先だが、澪が企画した先行予約は大成功した。澪の気持ちは高ぶっていた。 その日、仁にメッセージを送ると《澪と仕事をするのは、ずるいぐらい楽しいな》と返事をくれた。 先行予約から一週間ほどが経った。もう仁にプライベートな連絡をしてもいいだろうか。上司から、Onlyé for youの発売までは私的な連絡を控えるよう言われていたため、言いつけどおり個人的なやりとりは避けてきた。 ――もう、Onlyé for youは世間に知れ渡ってるし、連絡しても、いいよね……。 言い訳だ、とわかっていた。 澪はベッドのヘッドボードに背中を預けて、スマホを開いた。仁とのメッセージ画面を表示した。《Onlyé for youの先行予約完売のお祝いをしたいんだけど、どうかな?》 入力し終え、送信ボタンの上で指が止まった。 本当に、正式な発売はまだなのに、このメッセージを送っていいのだろうか。もしかしたら、仁は今、先行予約分の生産の件で忙しくしているかもしれない。お祝いどころじゃない可能性だってある。 指が震えたが、気づけば送信ボタンを押していた。「あっ……」 送信されたメッセージを呆然と見つめていると、すぐに既読がついた。そして仁からの返信が来た。《いいな。週末に俺の家に来れるか?》 その返信を見て、澪は息をのんだ。 本当にいいのだろうか。澪はメッセージを打とうとするが、指が震えて動かない。 グッと目を閉じて深呼吸を一度した。それから目を開け、返信した。《いいよ。なにかつまむもの作ろうか?》 既読がすぐにつき、返信が届いた。《適当にデリバリーでも頼むから、手ぶらで来てくれ》 お祝いしたいと思っていたのは、澪のほうなのに。 けれど、仁が手ぶらで来てくれと言うのだから、甘えることにした。

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